ニューヨーク。夕暮れ。
12月の終わり。
灰色の空に凍えた太陽が浮かぶ。
下街のバス停にバスが停まる。
次々と飲み込まれていく乗客を余所に、少年はベンチに腰掛け、コーラを咽喉に含ませる。
運転手は無言で一瞥すると排気口からガスを吹かした。
モス・グリーンのジャンパーを着た男が、同じ通りの角で少年を眺めていた。
残った少年に近づいた男は指先の煙草を軽く路上に投げると、声を掛ける。
「コーラで腹を膨らませるのも、今日でおしまいだ」
少年はキャップのつばから瞳を覗かせると男と握手した。
「たった2週間の仕事でおいしいおまんまが喰えるぜ。秘密厳守で願おう」
「おれの名前はじ・・・」
「おっと、そいつは言わなくていいぜボーイ。どうせやばい仕事を渡り歩いてる野郎なんざ、偽名に決まってる。齢はいくつだ」
「17」
「来い。あのアパートだ」
男は少年を連れて歩き出した。
◇
路地裏。
様々な腐臭が混じりあい、少年の目や鼻空にチクチクと刺さる。
古いアパートが立ち並ぶ。
建物同士の間にそれぞれが、息苦しく挟みこまれる様に。
「こっちだ」
入り口を探して戸惑う少年に、男はケバケバしくペンキで落書きされた扉の前に立つ。
その前にある、捨て置かれたゴミバケツを蹴る。
ネズミや蟲が、少年の破れたシューズの横を走り過ぎた。
鍵穴に錠前を差し込むと、薄暗く細い階段が目の前に現れる。
ギシギシ鳴る木の階段は急坂。
男が先に足を掛け、少年はその後ろに続く。
「前、仕事を頼んだ奴は此処を天国への階段みてえだって言いやがった」
「・・・・・」
「2年前かな。行った先は多分地獄だろうが。お前さんもそうなりたくなきゃ、きっちり仕事をするんだな」
辿り着いた部屋は広く、閑散としていた。
部屋の隅に薄い毛布を乗せたパイプベッドが一つ。
埃を被った暖房機。
4段の引き出し箪笥。
床に散らばる雑誌は2年前に廃刊になった本だった。
そして部屋唯一の窓は大きく、向かいのビル壁と隣接し
カーテンも無いまま、頑強に閉じられている。
「いい部屋だろう。暖房機もベッドもある。家賃はいらないぜ」
男は少年を窓際に手招きする。
指した方向を見るとはす向かいのビルの屋上で2枚のシャツが、物干しポールに掛かって寒々と揺れていた。
「あそこに干されたシャツの色と枚数を毎日チェックしろ。その順番を指定の電話ボックスから毎朝7時に報告するんだ。言う順番は左からだ、間違えるな。デブのマーフィーがいつも掲げてくれる。みりゃ判るさ、デブでチビで、必ず最初はこっちを見てくれる事になってるからな。それ以外の奴の掛けた服は無視しろ。期限は二週間、明日からだ。ちゃんとやり通せば報酬、一日でもやりそこなったら2年前ここに居た男にご対面させてやる。やるか」
「ああ」
男は満足げに顔をほころばせると、がたついた箪笥の引き出しを引っ張った。
がたがた唸る引き出しの中からオペラグラスを出して渡す。
「お前さん、目はいい方かもしれんが、見難い時はこいつを使え。本当は双眼鏡の方がいいのかもしれんが、そいつは前の奴が壊しやがった。何かとんでもなく興奮するものを見たらしくてな」
そう言うと男は声を抑えて笑い出した。
「この裏窓からは色んなオペラが見られるぜ・・・例えば、可愛い籠の小鳥がさえずってる様なんかをな」
少年はオペラグラスを手に怪訝な顔をする。
「コール・ネームは。ボーイってのは雇われの総称でね。ああ、勿論本名は言う必要はない」
「・・・・次元」
「ジゲンか。妙な語感だぜ、日本人か?」
男は紙袋を渡した。
覘くと缶詰やパンが詰まっていた。
「一度に喰うなよ」
男は階段の切っ先に立った。
「よろしくたのまあ、ジゲン」
◇
夕暮れも夜の帳をまとい始めた。
影を増す部屋を見上げると、電球のないシェードが天井高く吊るされていた。
次元は暖房機のスイッチを探して回そうとする。
湿った埃に包まれたスイッチはビクとも動かない。
少年は諦め、ベッドに登ると毛布を頭に被る。
手を摺り合わせ、はあ、と息を吹きかける。
もぞもぞと腰に手を伸ばす。
鈍重な色のマグナムをベッドに広げると、丁寧に銃の手入れをし始めた。
月明かりが眩しく窓に差し込む。
路地裏のビルの隙間を覗き込む様に掲げられた月。
少年は銃を枕の下に沈めると、頭から毛布を被って瞼を下ろした。
「7時・・・」
それがおやすみの合図のように、寝息が漏れ始めた。
◇
次元は目覚ましの音で飛び起きた。
ジリジリ鼓膜を突き刺す音。
どこだ。
だが、幸いこのアパートは壁だけは厚い様だ。
毛布を頭に被ったまま、部屋の中を右往左往する。
箪笥の引き出しを開け、入っていたタオルや黴臭い下着を放り投げる。
ベットマットを引き上げる。
ダン、とそれを落とすとベッド下を覗く。
ぐるりと部屋の真ん中で一回転してから箪笥を手前に引き、裏を覘く。
片隅に置いた昨日の紙袋が目に留まる。
勢い良くそれを掴むと口を広げた。
缶詰の隣で目覚ましはジリジリと冷たい悲鳴をあげていた。
次元は静かに時計の裏を触る。
再び静寂が訪れ、次元はほうと嘆息する。
針を見る。
6時40分。
次元は袋の中に入っていた林檎をジーンズの膝で磨くと、それにかぶりつきながら裏窓に歩を進めた。
昨日のシャツが2枚、揺れている。
果たしてあれはマーフィーの物だろうか。
ポケットから手帳を取り出すと、鉛筆で書き始めた。
気付くと太った男が一人、屋上に現れこちらに顔を向けていた。
次元は思わず手を止め、左手の林檎を軽く振る。
男はそれを見やると紙袋を取り出し、シャツを一枚ずつ吊るしていった。
その後ろから痩せた中年女が現れ、先ほど次元がメモしていたシャツを外すと背中を丸めて帰って行く。
次元は大きく肩をはずませた。
危ない・・・。
手帳のページを一枚破ると、左から順に書き始めた。
赤、オレンジ。黒、黒、白・・・・。
書き終わると時計は7時前5分を指していた。
階段を駆け下り、男から聞いていた電話ボックスの場所を目指す。
人影が一つ、ボックスに向かって歩いてるのが見えた。
まずい。
次元は人影に追いつこうと廃棄物の山を飛び越しながら、混み入った路地裏をジグザグに走り続けた。
人影はちらりと不信そうに少年を見たが、そのままボックスを通り過ぎた。
息を弾ませながら少年は電話ボックスに両手をついた。
『OUT OF USE』と大きく書かれた貼り紙を目にすると、荒い息を吐き出し背中をその上に横たえた。
受話器を取って鳴らす。
「・・・・ハロー。こちら、次元大介・・・」
『ダイスケ?』
「いや、日本風の挨拶だよ。次元だ。シャツの色と枚数は・・・・」
◇
太陽は真上に昇った。
光線は窓際に置いたコーラの瓶に透き通り、プリズムのようなモザイクをつくる。
次元はアパートで銃の弾を詰めていた。
予備の弾丸をずらりと並べる。
この仕事が終わったら、日本に帰ろう。
日本に残してきた妹に送金し続けているが、全く使った形跡が無い。
心配になってくる。
妹は病気だ。
だが、これだけの金が貯まったならもう手術だって出来るはずだ。
兄からも何の連絡もない。さすがに不安になっていた。
裏窓にも冬の太陽は明るく照らしてくれていた。
次元は何気なくオペラグラスを手に取り、裏窓に寄ると遠くで揺れているシャツを見た。
グラスの中の小さな世界は窮屈そうにシャツのロゴを広げてみせる。
次元はそのままオペラグラスを裏窓に這わせた。
退屈なレンガの断続。
ケーブルの絡み合い。
安手のカーテンの派手な模様。
キッチンに置かれた鍋の焦げ付き。
・・・・・・・・
突然。
少年の目に予期しなかった物が飛び込んで来た。
一瞬。
それは薄桃色の白い肌に輝く黒い瞳。
纏う柔らかな黒髪のすき間から、磨かれた宝石の様に輝いていた。
次元は思わずグラスを外した。
肉眼に先ほどの美しいものの正体を明かそうと、裏窓から見える全てを映し撮ろうとする。
向かいのビルの少し下の窓が、カーテンもなく見通せた。
女だ。
ほっそりとした美少女が裸体を男にあずけていた。
おそらく父親程も齢が離れているだろうと思わせる相手の男は
少女の体を持ち上げると、ゆっくり脚を開いた。
その途端、次元は胸に嘔吐がこみ上げた。
口を塞ぐとトイレに駆け込み、げえげえとコーラを吐いた。
違う。
あれは女ではない。
それ程までに美しい・・・・・・・少年。
『可愛い籠の小鳥がさえずってるのが見られるぜ』
男の言葉が甦る。
次元はベットに倒れこむとうつぶせになり、枕を握り締めた。
肩が、震えた。
嫌だ。不潔だ。男同士で。
いや、仮にあれが女だったとしても、自分は許せない。
次元の目に涙がこみ上げた。
自分の妹と同じ位の齢にみえた。
音信不通の妹が、もし、あんな目に遭っていたら。
次元はベッドにうつぶせたまま、声を殺して泣き始めた。
なのに。
なのに僕はあの少年の裸を、綺麗だと思ってしまったんだ・・・・・・・・・・。
辛い雫が咽喉を震わせ落ちた。
裏窓からは冬には暖かい日差しが、嗚咽を漏らす少年のセーターを淡く包んでいた。
続
「初詣」よりも先に書き始めた話ですが後回しにしました。最初からこれでは、あまりに暗すぎると思ったので;これは管理人の夢に出てきたストーリーを下地にしてます。どうやら寝る前ヒッチコックの「裏窓」を観たのが影響したらしい(単純) だからエロのシーンが出てきても、私のせいじゃないのです。エロ夢を見たなんて、欲求不満なのかしらとズーーンと落ちましたが。 ちなみに電話ボックスが出て来るのは、時代的に70年代の匂いが欲しかったからで、ルパン達の実年齢とは関係ありません。いづれにせよ、この話のテーマは「覗き」なんで、たまに覗く位の気持ちで見てやって下さい。 2005.3.7
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