|         5日たった。                         少年は毎日ニューヨークの路地裏を、電話ボックスに向かって走り続けた。     オペラグラスから覗いた光景は、はっきりと少年の脳裏に焼きついている。     だが、少年には再びあの窓にグラスを這わせるのが、酷く罪悪感を掻き立てる事の様な気がした。             孤独なアパートの部屋に独りで居ると、裏窓は大きなスクリーンのように移ろいで、少年の眼を魅惑した。     その誘惑を振り切る様に少年は走った。                 あと、9日。                 終わったら、銀行から妹に送金した残高を調べる。     兄への手紙は行くばかりで返事が来ない。郵便の窓口で聞いてみよう。兄から返事が来ていないか。     転々と居場所を変えている自分も悪いが、しかし薄汚れたセーターに破れの目立つスニーカーで、浮浪者と間違われて追い出されるかもしれない。     そんな事を考えながらもと来た道を帰っていると、左手の壁があの日見た光景のレンガであるのに気が付いた。                 足が止まった。                 この上。                 其処に、あの美しい少年が住んでいる。     何をしている子で何て名前の子なんだろう。     何故、あんな年老いた男に自分の身を預けているのだろう。     急に次元はその美少年に魅せられてる自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。                     あれは、きっと男娼だ。                     聞いた事がある。ニューヨークの裏街では多いんだそうだ。     最初は金欲しさに。     そして、やがて薬欲しさに身を売る哀れな連中。     次元は両肩で息をつくと奇妙に陽気な口笛を鳴らし、立ち止まったレンガを行き過ぎた。                   僕は、ああは、ならない。                   どんなに裏の仕事に手を染めようとも、妹や兄に顔向け出来ない事なんかするものか。     これであの少年が女の様に見えた事も合点がいく。     男に抱かれ続ければ、次第に女性ホルモンの分泌が活発になって肢体も女性化してくるに違いない。                           ニューヨークには珍しい鮮雲が頭上を流れ、路上に落ちた影をへし曲げていく。     ビルの狭間で濃密な影が出来ると、少年はひんやりした寒さの訪れに素早くアパートの階段を二段ずつ駆け上がった。     アパートには毎日つけるマーフィーのシャツのメモが一枚ずつ破られ、画鋲で壁にねじ込められている。     それは牢獄から出る日にちを数える囚人のカレンダーに似ていた。             「赤、黄、黒、白、オレンジ・・・」             自分が何をさせられているのかは判らない。     何日経っても、この色と数の意味を知ることはなかった。     少年は口ずさみながらメモの上を指で辿った。     5枚目で少年の指は行進をやめ、同じ色を数度なぞる。                     黒、黒、白、赤。                   ――――黒髪、黒い瞳、白い肌、赤い唇。                   少年の指はパラパラと音を立てながら壁を叩いて進む。     裏窓まで来るとそのまま浜から海に入るように、ガラスを冷たい音で奏でる。                           上を見た。                             からりと晴れた空にシャツはこんがりと陽を受け、いつもよりくっきりと色が眼に染みる。                     今日の、シャツの色が良くない。                     少年の視線は恐れと好奇心を抱きながら、そろそろとレンガを下降していく。     あの窓にはカーテンが閉まっていた。     次元はほっとした。     と同時に、心なしかそれを開けてみたいと思う自分を卑しく思う気持ちが湧いて出た。                     背中で窓を塞ぎ、また振り返る。     カーテンと部屋の隙間に目線を埋めては、再び自分の部屋の影へと向き直った。     窓際から離れる事も出来ずに背中のセーターはじりじりと熱を帯び、向きを変えろと少年を急く。     痛い位に西日に焦がされた毛穴から、一筋の汗が零れた。                     少年は振り返った。     カーテンが開いていた。     どんよりとした部屋の暗がりの手前に、乱されたシーツを被ったベッドが見える。     奥には高い衣装ポール。     不自然に派手な、白い毛皮のコートが無造作に引っ掛けられている。                     ちらりと人影が床を這った。     床を進むその脚は裸足でほっそりと、折れそうな程華奢だ。     次元は身じろぎもせず、その貌が見えるのを待った。     木陰で細いインパラを狙う、豹になった気分だった。     みるみるうちに現れたその身体は全裸だった。     軽くウェーブの掛かった黒髪の美少年が、ダビデの彫刻のように窓ガラスに手をつき、立ち止まるとその瞳をゆるやかに上へ翳した。     次元の瞳を覗きこむ。     覗き込まれた彼の胸は激しい動悸で貫かれた。     心臓は海原に大きく弾かれる小船のように揺さぶられた。     しかし、其処に瑞々しく満たされていく喜び。                         黒髪の美少年はそんな次元の様子を無表情に見ていた。     陶器を思わせる胸だけが上下に凪いで、生きている人間である事を窺わせた。                     ふいにその裸体を背の高い影が後ろから抱きすくめた。     この間の男とは違う。     痩せぎすの神経質そうな、やや若い男だ。     ワイシャツにネクタイがほどけ、垂れ下がっている。     男は少年を抱きしめたまま、カーテンを閉めようと片腕を伸ばす。     そのカーテンを、少年は元へ戻そうと身体を捩った。     男が苛立ちを見せると少年は爪先立ち、男の唇に自分のそれを押し付けた。     男は諦め、カーテンを掴んだ手を外すと、少年の背筋に移す。     背筋から手は、次第に少年の尻丘へと下る。     股間へ指が入り込むと、少年の身体がびくりと跳ねた。     二つの身体は捩れた蕾のように固くすぼまると乱れたシーツに倒れた。                             次元はその後の二人の絡み合いを、ただ、見送っていた。     不思議と以前のような嘔吐感は無い。     しかも、あれだけ自分を追い詰めていた妹への呵責が消えうせてる事に、次元は驚いた。     男娼なら当然と思う行為に冷たく納得している自分が居る。     軽蔑すらも最早ない。     金があれば自分も、あの美少年を抱けるのだろうか。     手付かずになっている妹への送金が頭を掠めた。                         行為は終わり、男はワイシャツのボタンを掛け、奥に在る扉を開けて出ていった。     ベッドにうつぶせた少年の裸体は、なだらかな呼吸を繰り返していた。                             今なら。                           今ならあの少年に会える。                           次元は外へ飛び出した。     金はない。しかし、話すだけでもいい。あの少年に会いたいんだ。                             レンガ造りの壁は西日も当たらず、冬の寒さをそのまま残していた。     次元は門の入り口に来ると立ち止まった。     部屋の番号。     ずらりと並べられた郵便受けの表札に一つ一つ眼を走らせる。     目ぼしい場所に辺りをつける。     破れかけた名刺をそのまま貼った物や、印刷の薄くなった古い表札。     ポストにそのまま落書きしたような、マーカー・サイン。     男娼の表札はもっと判りにくい物かもしれない。                     その中に裏街のアパートには似つかわしくない、こぎれいなカードを見つけた。     金刷りの枠を印刷したそのカードには、フランス語だと思われる会社名が打ってあった。     次元にそれは読めなかったが、そのカードの隅に小さくペンで書き込まれた数字は読み取れた。     「V」とだけ書いてある。     さん・・・スリー・・・サード・・・三つ目。何の?     次元はジーンズのポケットからひしゃげた手帳を取り出し、手馴れた速さでその辺りのポスト名と部屋番号を書き付けた。                 ふいに、エレベーターが開いた。                 破れた布が項垂れて貼られてるエレベーターの壁は汗臭く、次元は思わず鼻腔を閉じて後退する。     先ほどの几帳面そうな男が、高い目線からじろりと次元を見下ろした。             あの子は、どの部屋に・・・。             問いかける想いは、しかし言葉となって口から解かれる事はない。     重たい通気となって二人の間に垂れ込めた。             「おい。管理人」             咎める口調で男はアパートの入り口にある、管理室の小窓に向かう。     ヤニで黄色くなった歯をした東洋系の男が、古びたカーテンを眠そうに開けた。     その手に数枚、札びらを掴ませると、背の高い男は次元を一瞥して大またで外に出た。     東洋系の男は次元に近寄る。             「誰に会いに来た」     「え・・・あの、友達に・・・」     「友達?」     「黒髪で・・・色が白くて・・・僕と同じ位の年下の男の子」     「その子の名前は?」                     次元は押し黙った。     名前を知らない友達なんて、いないだろう。     管理人は次元の腕を掴んで、出入り口に引きずると背中を押した。         「でたらめばかり言いやがって。空き巣狙いなんかしてんじゃねえ」                                 ◇                                 その夜。                           次元はベッドで仰向けになり、天井に手帳を重ねた。     月明かりが満たす裏窓で、その明かりに彼は書き付けた通帳の文字を拾い読んでいた。     あの美少年に似合いそうな名前を探す。                 ビル・・・ボビー・・・ミセス・シグナン・・・・ジョナサン・・・Dr.ジャック・・・・デビッド・カンパニー・・・・・。                 最後に読めないフランス語で呟きは止まる。     唯一、読める文字を唇は拾う。                 「V」・・・・・・。                 何故かそれは妙にあの美少年に似つかわしい形に思えた。     次元は裏窓から首だけを傾げて、あの窓を覗き見た。     再び濃い緑のカーテンが閉じられている。     次元の瞼が、やがて月明かりを遮り始めた。     7時。あと9日。     その後に初めて彼は少年に呼びかけた。               「おやすみ・・・サード・・・」                 裏窓を隔てて、微笑んだ彼は少年を抱くように両腕を伸ばすと、パタリとその手をマットに落とした。     後には、枕から僅かに顔を覗かせたマグナムだけが、月明かりを眺めていた。                                                                     続                                                               「V」は機種依存文字なのだけど、どーーしてもこの形がいいのでこれで通します。淡々とした話なんで、気張らずにボーーとみて下さい。この話ではジャリルパ「555M」とは設定が全く異なります。あっちのルパンは女の子ですが、こっちのルパンは男の子です。このシリーズにはエロが入ってますが管理人はエロそのものよりそこに至る経緯とか、その後の人間関係の変化とか、そういった部分に萌えるんです。こういうのってやっぱマイナーなのかなあ・・・。2005.4.5      |